人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

録音を聴く

クラシック音楽とジャズとオーディオと歴史映画のブログ [杉本良明]


by yoshisugimoto

『西太后』1984年

『西太后』1984年_b0109511_10111048.jpg
『西太后』(せいたいごう、原題:火焼圓明園 / 垂簾聴政)は、1984年の中国・香港合作映画。

概要
『火焼圓明園』(93分)、『垂簾聴政』(115分)という前後編の2本の映画であるが、それを編集して129分に短縮し国際編集版として1本にまとめ上げたものが日本で劇場公開された。ビデオも同様のバージョンだが、DVDでは『火焼圓明園』を邦題『西太后 第一部』、『垂簾聴政』を邦題『西太后 第二部』とするノーカット完全版が発売された。

西太后の半生を描いたものであるが、西太后の悪女ぶりを過剰に強調しており、史実と異なる残虐シーンが描かれている。映画では西太后がライバルの麗妃の手足を切り落として甕の中で飼うというシーンがあるが、これは完全なフィクションである。実際の麗妃は西太后と良好な関係にあり、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送った。咸豊帝の唯一の娘・栄安固倫公主を生み、同治、光緒朝には麗皇貴妃、麗皇貴太妃に加封され、1890年に54歳で死去した。荘静皇貴妃と諡号され、東陵の咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている。

1988年には続編の『続・西太后』が製作された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『西太后』1984年_b0109511_09565763.jpg

辛酉政変(しんゆうせいへん)は、西太后・東太后・恭親王奕訢らが、粛順一派を排除した清朝でのクーデターである。祺祥政変ともいう。

概要
1861年8月、咸豊帝は熱河の行宮で病死した。咸豊帝は死の前に御前大臣の怡親王載垣、鄭親王端華、協弁大学士・戸部尚書粛順、額駙景寿、軍機大臣の兵部尚書穆蔭、吏部左侍郎匡源、礼部右侍郎杜翰、太僕寺少卿焦祐瀛の8名に対し「賛襄政務王大臣」として、皇太子載淳を補佐せよとの遺詔を残した。これは載淳の生母の西太后、恭親王奕訢、顧命大臣センゲリンチン(僧格林沁)、軍機大臣文祥らを権力から排除するものであり、不満をまきおこした。

西太后は東太后と奕訢、妹の夫である醇郡王奕譞(奕訢の弟)と結び八大臣との権力闘争を始めた。9月14日、御史の董元醇は皇太后の垂簾聴政と近親の親王の補佐を求める上奏を行ったが、八大臣は今まで清朝にそのような例はなかったとして反対した。奕訢は北京で大学士桂良、賈禎、周祖培、戸部尚書沈兆霖、刑部尚書趙光、さらには北京周辺の兵権を握る欽差大臣・兵部侍郎勝保とセンゲリンチンの支持を取り付けた。

10月26日、咸豊帝の棺が熱河から北京に運ばれたが、西太后は粛順に棺を護送させて、自分と東太后と載淳は先に北京に入った。北京に入ると即座に奕訢とクーデターを起こして、11月2日に載垣と端華を逮捕し、奕譞を派遣して密雲県で粛順を捕縛した。

11月3日、奕訢を議政王とし、桂良ら5人を軍機大臣とした。8日、詔を下して載垣と端華に自害を命じ、粛順を斬首し、その他の5名を免職とした。11日、載淳が皇帝に即位。八大臣が決定した年号の「祺祥」を取り消し、「同治」の年号が採用された。こうして西太后と奕訢が清朝の実権を握ることとなった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

西太后の前半生を扱った作品で、咸豊帝の死後に権力掌握するところまでを描いている。映画自体は中国史で無数に繰り返されてきたよくある権力闘争だが、製作年が1984年と比較的古いため、全くフィクションの「甕女」のシーンがあるのはいただけない。しかも映画の終盤に取ってつけたように唐突に挿入されている。映画の脚本は共産党の意向だったに違いないが、歴史考証に問題がある作品と言わざるを得ない。

西太后の全貌を知るにはやはり続編の『続西太后』を観る必要があるだろう。則天武后は政治にビジョンとセンスがあったが、西太后は権力闘争以外のビジョンがなかったと言うしかない。権力を握っても、所詮は「女の浅知恵」だったのだと思う。それでも毛沢東よりはよほどマシな独裁者だった。圓明園の焼失にしても、英仏の蛮行だ、それで文明国なのか、と語り手の舌鋒は鋭いが、それを言うなら文化大革命はどうなんだ、と言いたい。文化遺産を毀損したのは欧米人だけではなく、中国人自らも手を下している。

『西太后』1984年_b0109511_09514346.jpg

名前
URL
削除用パスワード
by yoshisugimoto | 2024-05-22 09:53 | 映画 | Comments(0)