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クラシック音楽とジャズとオーディオと歴史映画のブログ [杉本良明]


by yoshisugimoto

『チェ 39歳 別れの手紙』2008年

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1965年のキューバ。共産党の中央委員会にゲバラの姿はなかった。委員長のカストロは市民に対して、彼宛のゲバラの手紙を公開した。ゲバラは党の幹部の地位を捨て、貧しい人々が搾取され続ける国々での国際的な革命闘争を目指して、まずアフリカへ渡っていたのだ。

一年後の1966年11月、変装したゲバラは、キューバの妻子に別れを告げて、南米中央部のボリビアに入国した。キューバ人のゲリラ仲間や現地の同志と合流し、辺鄙な土地に新兵の訓練キャンプを設営するゲバラ。だが、ボリビアの共産党は武装闘争に消極的だった。

年が明けて1967年、キューバのカストロはゲバラの消息を探り、支援物資を届ける努力を続けていた。ラモンという偽名で戦闘を続けるゲバラは、貧しい農民の子を治療し、親たちに協力を求めた。だが、農民たちは外国人の多いゲリラ部隊を信用しなかった。ボリビア軍はゲリラが農民を奴隷にすると言い触らしていたのだ。

アメリカ寄りのボリビア政府は、カストロがボリビアでも共産革命を起こすのではと案じていた。官僚たちはゲバラがまだアフリカのコンゴにいると思っていたが、アメリカ軍はボリビアの特殊部隊の訓練を買って出た。彼らは、人気のある「英雄ゲバラ」がボリビア人に支持されることを恐れたのだ。

ゲバラは、自分とキューバ人ゲリラの存在を秘密にしていた。だが、捕虜から情報が漏れて、ゲバラの存在は政府軍の知るところとなった。シグロ・ベインテ炭鉱でストライキが計画されると、政府はゲリラ部隊と鉱夫たちの共闘を防ぐために、鉱夫たちを虐殺した。

ボリビア人民解放軍と名乗って戦闘を続けるゲバラ達。だが、新兵が補充できず、戦闘のたびに兵士の数は減って行った。ゲバラがボリビアに入って280日目には、ゲバラ自身の体調も悪化していた。喘息を患っているゲバラは、薬を切らしてしまったのだ。合流するはずだった別働部隊も、農民の裏切りで政府軍に待ち伏せされ、全滅した。

フェルナンドという偽名で部隊を率いるゲバラを、ボリビア政府軍が追い詰めて行った。ゲバラがボリビアに入って340日目、ユロ渓谷の戦闘で、ついにゲバラは捕虜となった。オルトゥーニョ大統領は、ゲバラを連行することなく現地での銃殺を命じ、刑は翌日に執行された。1967年10月9日のことだった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1965年4月、カストロに訣別の手紙を残して突然姿を消したゲバラは「ゲリラ戦争による世界革命」を夢見てアフリカに渡り、アルジェリア戦争後のFLNのベン・ベラと会談、コンゴ動乱に加わりルムンバ死後の政府軍を指導した。しかし冷戦下の複雑なコンゴ動乱の政治対立にいやけがさしたのか、キューバに戻った。カストロは1966年にソ連批判に転じてゲバラとの関係も修復し、南米の革命根拠地作りのため、ゲバラをボリビアに派遣した。

世界革命に散る
 当時ボリビアはバリエントス軍事政権がアメリカのCIAの支援の下で錫鉱山などを支配していた。ボリビアに潜行したゲバラはゲリラ部隊を組織し、反政府活動を展開し、ボリビアのベトナム化をめざした。しかし約11ヶ月の戦闘の後、政府軍によって捕らえられ、1967年、銃殺された。
 ゲバラのボリビアでのゲリラ戦は彼がつけていた日記が密かにキューバにもたらされ、『ゲバラ日記』として公刊された。彼は民族や国家を超えて世界革命を追い求めた革命家だった。なお彼は自らをチェと名乗ったが、それはアルゼンチンで人に話しかけるときの「ねえ」という意味で、彼が議論のときいつも使っていたのでキューバで付けられたあだ名だった。<ゲバラ『ゲバラ日記』1969 角川文庫版 訳者高橋正の「ゲバラ小伝」による>(以上『世界史の窓』)
冷戦体制が崩壊し、アメリカの後ろ盾を失った独裁者が南アメリカ諸国の多くから去った今日でも、ゲバラは南アメリカ諸国を始めとした第三世界では絶大な人気を誇るカリスマである。特にボリビアでは「イゲラの聖エルネスト」と呼ばれ聖人同然の扱いである。ゲバラが最期を迎えた小学校は現在記念館として開放されている。2006年にボリビアの大統領に就任したエボ・モラレスは、就任後初めてゲバラを公式に再評価した大統領となった。

日本でもゲバラの肖像写真などがプリントされたTシャツが売られている他、サッカースタジアムのゴール裏のファンがゲートフラッグにゲバラの顔を描いたものを掲げていることがある。日本では浦和レッズのサポーターなどに見受けられる。またロック・ミュージックにおいても影響を与え、一部アーティストは公認グッズでゲバラの顔写真を使用している。

1997年、キューバとボリビアの合同捜索隊により、死後30年にして遺骨がボリビアの空港滑走路の下で発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。ボリビアはゲバラが英雄視されているために位置を伏せておきたがったが、関係者の告白によってこの事実は陽の目を見た。キューバではゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。フィデル・カストロは長時間のスピーチで有名であるが、この時のスピーチは珍しく簡潔であった。遺体はキューバ中部の都市サンタクララに設けられた霊廟に葬られた。

革命の英雄として高い評価を受ける一方、混乱や戦闘を引き起こした当事者として批判も根強い。故郷のアルゼンチンの都市ロサリオの公園にはゲバラの銅像が建立されているが、2017年にはゲバラに批判的な人々により銅像撤去に向けた署名活動も行われた(2021年時点で撤去は行われていない)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

政府の武力弾圧に対しては政党活動ではダメで、武力闘争で対抗すべし、これがゲバラの信念だった。このあたりガンジーとは全く異なる。いずれにせよゲバラは天寿を全うできる人物ではなかった。政府が武力弾圧に訴えると、農民は政府の言いなりになって、ゲリラ勢力に味方しなくなった。軍がゲリラの掃討作戦を始めた時点で命運は尽きた感じだ。結局、志を遂げず銃殺されたが、それがかえってゲバラを不滅のアイコンとする結果となった。とりわけ落命したボリビアで聖人扱いされているということだ。ゲバラが現代に現れたならテロリストだが、1960年代ならヒーローたりえたということ。革命家としては珍しく人間愛に満ちた人物で、今後とも南米のヒーローとして語り継がれることだろう。

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by yoshisugimoto | 2024-05-17 08:38 | 映画 | Comments(0)