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クラシック音楽とジャズとオーディオと歴史映画のブログ [杉本良明]


by yoshisugimoto

覇王伝アッティラ

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ユニバーサル・スタジオ製作によるアクションアドベンチャー第1弾。4世紀、戦乱のユーラシア大陸を舞台に、フン族間の抗争で滅んだ集落の生き残り・アッティラの戦いを描く。主演は『300 <スリーハンドレッド>』のジェラルド・バトラー。【スタッフ&キャスト】監督:ディック・ローリイ 製作総指揮:カルデコット・チューブ 脚本:ロバート・コクラン 撮影:スティーヴン・ファイアーバーグ 出演:ジェラルド・バトラー/パワーズ・ブース/トミー・フラナガン/ティム・カリー

「EPISODE1:帝国への道」
4世紀--戦乱のユーラシア大陸。フン族間の抗争で集落が一つ消滅した。全てを失った幼いアッティラは叔父のルアに育てられる。しかしルアの領土でも激しい闘いが繰り返されていた。アッティラは武勲を積み上げ、若くして名将の頭角を現すが、従兄弟のブレダはそれを快く思っていなかった。隣国ローマはフン族の勢力拡大に怯える一方、皇帝の背後で周辺民族を懐柔しようと様々な策をめぐらせていた。兵法を熟知し、勇気と行動力に長けたアッティラはローマ帝国へと迎え入れられる。しかしアッティラ不在の故郷では、ルア王を殺害しようとする動きがあった・・・王の座をめぐり、新たな闘いが始まった!

「EPISODE2:英雄の宿命」
ブレダを破ったアッティラは怒涛の進撃を続け、ローマ帝国よりも広大な領土を治めるに至った。預言の通り、王の印の剣を手にしたアッティラを止めるものはもはや何もない。隣国は服従するか、抵抗して滅ぼされ、灰となるしか道は残されていなかった。アッティラの力を侮っていたローマは遂に反撃へと立ち上がる。若き頃からアッティラを知る、狡猾なアエティウスは刺客を既に送り込んでいた。こうして後の西洋文明の運命を決するカラコルンの闘いが始まった。大地は男たちの血を吸って紅く染まった!
(以上『キネマ旬報WEB』)
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アッティラ(Attila、406年? - 453年)は、フン族とその諸侯の王。中世ドイツの『ニーベルンゲンの歌』などの叙事詩にはエツェル(Etzel)の名で登場する。現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の「大王」を自称した。ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは、「神の災い」や「神の鞭」、「大進撃(The Great Ride)」と言われ恐れられた。

出自についてはフン族自体と同様、詳しくは分かっていないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属すると思われる。

434年に伯父である王ルーアの死後、兄ブレダとともにフン族の王となる。445年頃に共同統治者のブレダが死ぬと、単独の王となった。アッティラはブルグント族などのゲルマン系諸族を征服し、パンノニアに本拠を置いて東ローマ帝国への侵入を繰り返して、短期間でライン川、ドナウ川、カスピ海に渡る大帝国を築き上げた。451年、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、ガリアへ侵入したが、ローマの将軍アエティウス指揮下の西ローマ=西ゴート連合軍とカタラウヌムで戦い、敗退した。翌452年にイタリア半島へ侵攻して、ミラノ、アクイレイアなどの諸都市を陥れたが、教皇レオ1世の説得によって撤退した。

アッティラの治世下で帝国は最盛期を迎えるが、453年、自らの婚礼を祝う酒宴の席で急死した。アッティラの死後、息子たちの間で内紛が起き、フン帝国は瓦解した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

覇王伝アッティラ_b0109511_10240066.jpgフラウィウス・アエティウス(ラテン語: Flavius Aetius, 391年頃 - 454年9月21日)は、西ローマ帝国の将軍。

幼少期はフン族の人質として過ごし、アッティラとも親交があったといわれる 。425年にガリアでの軍指揮権を獲得すると蛮族との戦いで徐々に頭角を現して西ローマ帝国の実権を握るようになり、434年にはパトリキの称号と西ローマ帝国全軍司令官の地位を得た。451年にカタラウヌムの戦いにおいてアッティラ率いるフン族を撃退した。454年、アエティウスの功績に危機感を持った皇帝ウァレンティニアヌス3世によって暗殺された。翌年、皇帝自身もアエティウスの元部下によって暗殺されている。

彼のライバルだったボニファティウス (en) とともに、アエティウスは「最後のローマ人 (en) 」としばしば呼ばれている。歴史家エドワード・ギボンはカタラウヌムでの勝利をもって「蛮族にとっての恐怖でありローマにとっての守護者として称えられた男」と評した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

覇王伝アッティラ_b0109511_12351418.jpgテオドリック1世 (Theodoric IまたはTeodoredo I、?年 - 451年)は、西ゴート王。アラリック1世の庶子、または義理の息子とも言われている。(中略)

451年6月、カタラウヌムの戦い(トロワ近郊)で連合軍はフン族と会戦した。右翼をテオドリックが、左翼をトリスムンドが指揮した。テオドリックの軍はローマの決定的な勝利に貢献したが、彼はこの戦いで戦死した。東ローマ帝国の官僚ヨルダネスは、テオドリックの死を伝える2つの説を記している。1つは、戦闘中に落馬して馬に踏みつけられて絶命したというもの、もう1つは東ゴート族の戦士の槍に貫かれたというものである。テオドリックの遺体は戦闘の翌日に発見された。ゴートの慣習に則って、テオドリックの遺体は戦士たちの慟哭で迎えられ、戦場で火葬された。その後すぐ、息子トリスムンドが王位についた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
同じ遊牧民なので、アッティラとチンギス・ハンは似たところがある。特に生まれ育った部族が襲撃を受け、父親が殺されるところは同じだ。映画は元はテレビドラマだが、脚色は相当あると考えざるをえない。しかし、創作されたエピソードも史実と矛盾しないように考慮はされている感じである。たとえば、カタラウヌムの戦いで戦死した西ゴートのテオドリック1世は、映画では乱戦中にローマに殺されたことになっている。また、アッティラは453年、自らの婚礼を祝う酒宴の席で急死したが、これは映画では暗殺されたことになっている。

カタラウヌムの戦いの翌年にアッティラが教皇レオ1世と会見したのは有名な史実だが、映画には出て来ない。なお西ゴートのテオドリック1世と東ゴートのテオドリックは別人なので、ややこしい。東ゴートのテオドリックとは西ローマを滅ぼしたオドアケルを滅ぼし、東ゴート王国をラヴェンナに建国、ビザンツ帝国の名代としてイタリア半島を支配した人物である。

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by yoshisugimoto | 2024-05-16 12:40 | 映画 | Comments(0)