硫黄島の戦い
2024年 01月 04日
戦争映画を観る上での補助線として、対米戦争の概要を整理してみる。細部にこだわると全体が見えなくなるので概説した図解を探してみた。マクロで観ると、1942年6月のミッドウェー海戦以降、日本は連戦連敗、東から西、南から北に向かって押され続けることになる。①1941年12月8日早朝、日本海軍の特別攻撃隊が真珠湾を奇襲、米軍は民間人も含めて2500人に近い死者を出した。同じ12月8日、日本軍はマレー半島上陸作戦を成功させ、海軍がマレー沖海戦でイギリス海軍を撃破、陸軍はグァム上陸をおこなった。さらに翌42年春まで、香港、マニラ、シンガポール占領という勝利が続き、戦争の行方は楽観視されるようになったが、東南アジアから太平洋におよぶ広大な戦線を維持するための兵力や石油を始めとする物資の補給に次第に苦しむこととなる。1942年4月、米国空母からドゥーリトル空襲を受ける。
②1942年6月、前哨戦として日本軍はアリューシャン2島を占領するが、ミッドウェー海戦で日本軍の連合艦隊は空母4隻すべてと兵員 3500人、航空機 300機を失うという惨敗となった。以後日本軍の優位は崩壊し、太平洋戦争は連合軍の反攻という新しい局面に突入する。
③1942年8月、アメリカ海兵隊 6000人がガダルカナル島に奇襲上陸し、日本軍を圧倒した。日本軍はアメリカ軍の本格的な反攻と判断せず、戦力を逐次投入。アメリカは迅速に4万4000人の増派を行なった。海戦では日米双方が多大な犠牲を出し、1943年2月、日本軍の生存者 1万2000人が撤退。日本軍の戦死者は 2万4000人以上。日本軍は食糧や兵器が欠乏し、餓死のほかマラリアなどの熱帯病による犠牲が多かった。1943年4月には山本長官がラバウルで戦死、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が米軍の上陸に抵抗、2600名が全滅した。ただし、7月にはキスカ島の守備隊6000名が奇跡的に撤退に成功した。
④マリアナ・パラオ諸島の戦いの敗北で制海権を奪われた結果、1944年7月、サイパン島の戦いでは守備隊が玉砕、約4万1000人が戦死し、民間人数百人が断崖から飛び降りて自決した(バンザイクリフ)。サイパン島の陥落の結果、本土空襲が可能になった。
⑤レイテ沖海戦は1944年10月にフィリピン周辺において行われた日米海戦。日本海軍は小沢機動部隊を囮にして三方面からレイテへの突入を図ったが、米軍の反撃に直面して作戦は失敗に終わった。一連の戦闘で日本側は戦艦武蔵(むさし)を含む艦艇多数が沈没し、人員約1万を失い、連合艦隊は事実上、壊滅した。
⑥硫黄島の戦いは連合艦隊壊滅の後、制海権・制空権が一切ない状態で始まった。本土空襲はすでに始まっていた。2万2000人の守備隊はほぼ全滅したが、200名ほどは投降して生き残った。硫黄島制圧後、爆撃機に加えて戦闘機も配備されるようになる。
⑦1945年4月、ニミッツ大将指揮下に1300隻の艦艇を率いる6万人のアメリカ軍が上陸。日本は特攻機や残存艦艇ともに戦艦『大和』が出撃したが、『大和』はアメリカ艦載機の攻撃を受けて沈没。沖縄守備隊も総反撃に出たが全滅し、組織的抵抗は終わった。民間人の死傷者 10万人以上で、このなかには「ひめゆり部隊」の犠牲も含まれている。
日本側は軍部による全体主義の結果、構造的欠陥があって大局の判断ができなかった。開戦したこと自体がそもそもの誤りで、外交音痴が際立つ。暗号も解読され、敗戦は必然だった。
by yoshisugimoto
| 2024-01-04 03:40
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