『名曲この一枚』
2014年 11月 24日
西条卓夫と言えば、その昔『ラジオ技術』誌で独特の文体の演奏評をしていた人である。たとえば、ご贔屓のランドフスカはこんな感じである:
ランドフスカは、私の最も敬愛おかぬクラヴシニストだ。いつ、どのような時に聴いても、心から慰められる。よほど肌が合うのかも知れぬが、やはりこれは、ランドフスカが稀に見る真の音楽家であったからだと思う。
芸風は、霊感と確信に満ち、高雅秀麗で温かく楽しい。しかも、レペルトワールのほとんどが古典楽曲の粒ぞろい、また楽器の「プレイエル」のクラヴサンが現代的な表現力でそれらに新生命を与えるというのだから、鬼に金棒だ。一度でも良いから、実演を聴きたかった。(中略)(何でもよいから、出たら、送れ)と予約注文するほどに熱を上げたものだ。時期が良かったので、このギャンブルは数々の大当たりを取ったが、その一つにこの「ゴールドベルク」のSPがある。何しろ、ランドフスカが入れた大もののしかも稀代の名曲の初登場というので、知る限りの同好の士を招き、息づまるような雰囲気の中で聴いた。果然、そこには私たちのバッハ、本当の音楽が見出された。エネスコのバッハと同じく、最も好ましい。
この人の演奏評は辛口もいいところで、たいていの新録音は、「全体的に生ぬるい」とか「概して不調だ」などと一蹴される。良くても「同曲中の上位に置けよう」程度。1年間の新録音でも毎年2、3枚のみが推薦レコードとなる。五味康祐が『西方の音』で、この人について書いているくだりがある。
ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲(イ短調)で眼前に彷彿するのは盤鬼西条卓夫である。物を言う口つきや目の表情が野村光一に似ているこの海坊主めいた巨魁は、どこかにシベリウスの面影もあり、大へんな大食漢である。揶揄でこれを言うのではないので、昨年ヨーロッパを回った時、紅毛人というのがいかに大食であるかを目撃した、その時にも私は西条さんを思い出した。そういう日本人ばなれのしたヴァイタリティで彼は音楽を語り、蘊蓄を傾けてきたのである。レコード再生音にも一家言あり、近くこの盤鬼のレコード談義が出版されるそうだが(『名曲この一枚』文芸春秋新社刊 昭和三十九年)、何年頃誰がどういうレコードを吹込み、それはどの程度の演奏だったか、ことに第何楽章はどうだった、などと、興湧けば尽きることを知らぬ語り口に幾度か私は聞き惚れたものだった。いえば、レコード音楽の活き字引のような人である。ランドフスカやティボーについて、多くのことを私はこの人から教えられた。が、最もなつかしいのは彼がヴィオッティのヴァイオリン協奏曲に聴き入っていた姿である。たーら、たーら、たーらッた……子供がくちずさむふうに、しらべにあわせてくびを振り、暗誦している海坊主は、どんなに微笑ましく見えたろう。
『名曲この一枚』は1964年刊だから、ちょうど50年前の本だが、現在でも立派に通用する内容である。買うとプレミアがついて中古でもたいへん高いのだが、図書館では容易に借りられる。借りるのはこれで2回目である。今回はスキャナで「自炊」しておこうと思っている。もちろん裁断したりはできないが。
西条卓夫
昭和3年/1928年,慶大卒.以来戦前は『ディスク』誌同人,戦後は,『芸術新潮』誌クラシック・レコード欄を昭和29年より53年まで,ほぼ1/4世紀担当した.レコード評論生活50年の最古参である.きわめて,独自の筆致をもち,その道では,「盤鬼」の異名をうけている.当時,わが国ではほとんど無名であった,ジャック・ティボーとワンダ・ランドフスカを早くより紹介したのはあまりに有名.訳・著書の,ティボー『ヴァイオリンは語る』 (新潮社刊),『名曲この1枚』(文芸春秋社) は,現在ともに絶版で,ファン垂涎の書となっている.(編)
by yoshisugimoto
| 2014-11-24 09:06
| クラシック音楽CD
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